【音楽】歌が抱えるセコさ。
歌には様々な美談があると思う。
確かに必要なものだし、歌が出来上がるそういったバックボーンにこそ、意味があると思うし、それを常々感じたいと思う。
地震を受けて沢山のアーティストが音を作って発表している。
自分には無かった発想だったから、してみようかと思ったけど。
しかし、ちょっと冷静になって考えた結果。自分はあえて音を作らない選択肢を選んだ。
遠巻きの地震から、遠巻きの悲劇から、どんな音が作れる?
自分にはそれが全く分からなかった。
役者時代に刷り込まれた感覚もあるのだろうけど、自分を最低でも想像の中で被災地に置いて、活かせなければ、そこにリアルなんて存在しえない。
自分は被災地に足を踏み入れたわけではないし、その空気を浴びる場所にはまだまだ行けないし、想像だってきっと希薄で、心情を汲むことなんてきっと出来ない歌詞になる。
勿論、阪神は知っている。従兄弟も友人も被災したし、地震の災害の酷さもよく知っている。
でも、自分が多少でも遠巻きに見ている景色を、歌で強く語ろうなんて、そんな傲慢が許されるとは思えない。
今、自分が歌えるものは、きっと現場にいる人からすれば、てんで軽く薄っぺらな歌だろう。
自分はその瞬間に、歌の抱えるセコさを知ったような気がしました。
そう感じたら、今、自分に歌える歌は限られる気がしたわけで。
地震を語って歌わなくていい状態で、自分はステージに立ちたいから。
そんな限定的なものじゃなく。
生きていること。
人を素直に大切にすること。
守ること。
震災や、他人の不幸を理由にして、自分の音楽が他人に届くようなら、多分、自分は一生、その行動に後悔するでしょうから。
自分らしい音を作れる場面まで、今ある曲に想いを乗せることにします。
自分に出来る間接支援を優先することにします。
故に言葉は届けます。
地震を理由にするのではなく、早く日常の中から、日常をもっと大切に出来る言葉が生まれればいいな、と思います。