【日常】適材適所。

適材適所って言葉に潜む本音や建前を考えていました。

確かにこの言葉。
綺麗過ぎるな、と。


適材と言われても、見方を変えれば自分の安泰なポジション、なわけで。


こういう時期だから、と自分の適材を逸脱出来る強さ、というかね、そういう部分も認めたり出来れば素敵だな、と思ったりします。


西東京市計画停電のエリアを外れたので、諭吉さんを一枚、被災地に旅立たせました。
毎月末に少しずつ、支援金を用意する予定にしています。これも適材適所、かな。

難しいね、成否の判断って。



自分がこうして厳しい物事も言葉にするのは、他人を傷つける為ではないですが、傷つく人も少なからず居るでしょう。

ただ、それは震災だから、とかさ、そんなレベル以外でも起き得ることです。

何の苦悩もなく言葉を放っていると思っているなら、あなたも心底自分の言葉をカタチにしてみなさい、と言いたい。

そしたら気付くでしょうから。損得勘定では量れない痛みに。何が正しいのか?と探求する事の辛さや痛みを感じると思います。少なからず自分はそれとずっと戦っています。

単純にね、言葉を放たなければ、放つ側も傷つくことはないです。安泰な場所に居たいなら、安泰な言葉だけを放っていればいいわけだから。


ひとつ言えることがあるとすれば、自分は理想論をあまり口にはしません。

現実問題からの解決策のほうが有意義であると思う。そっちのほうが面倒なのが事実ですから、理想論を掲げる人を否定はしませんけど、未来とは現実の先にあるものだから、それこそ自分の足元を丁寧に見なきゃダメなんだと、沢山の出来事に気付かされてきましたから。


故に「夢」という言葉を安易に使いません。

夢って言葉は確かに必要だけど、場面によっては「綺麗過ぎる言葉」だと想いませんか?


復興の夢を語ることは確かに人の希望だと思います。

しかし、現実問題はそう甘くないし、日常において「夢」を掲げて散っていく殆どの人が、夢に対して実直で現実的な努力を忘れている事実を、自分は芸能学校で目の当たりにしてきました。

夢だけを語り、精神論だけで技術に手を付けていない人がどれだけ居たか、と。


だからこそ、現実を丁寧に見て欲しい。


悲しんで亡くなった人が生き返るなら、いくらでも悲しんでいたい人が自分には居る。

けれど、生き返りはしないし、悲しみに心奪われて手放すものがあったとしたら、その瞬間に手放しているものの理由がその人になる。自分は一番にそれを避けたかった。

一番の背信行為はその人の死を、自分にとっての厄災としてしまうことだと想ったから。

泣いている余裕があるならば、明日の光りを追い掛けてやろう、と自分の心に一本の軸を設けることにした。


ある程度の人には分からないことかも知れない。だから、分かる人だけ分かってくれればいいと思っている。

悲しんでいて、誰かが救いの手を差し伸べてくれることは幸せなことなんだ。特別なことなんだ。

だからこそ、自分で立ち上がり、生きていることを証明したかった。笑っていたかった。

私には悲しみを支えてくれる親族が沢山居るから。幸せを噛み締めて立ち上がることが出来た。笑顔で生きる事を使命に出来た。

故に自分の本願を成すまで、泣いてはいけないんだと、自分に課していますし、本当に泣ける場面って、そういうものだと思うから。思いっきり泣けるまで涙を保管しています。


悲しむことなんて、後でいくらでも出来るんだから。まず、人の死を厄災にしない。

そんな生き方を自分はしています。